がんびーの:雑談でも

映画のこと、本のこと、音楽のこと…。最近あったことをタラタラと綴ります。お暇な方、お付き合いください。

視点について

こんにちは。

 

今回は映画の視点について。というのも、先日ホセ・ルイス・ゲリン監督の「シルビアのいる街で」って映画を見まして、それが中々素晴らしくまた斬新で色々感じることがあったのでそれを書こうと思います。

 

 

 

シルビアのいる街で(2007)

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パリが舞台のストーカー映画。6年前にあるバーで知り合ったシルビアって名前の女性を忘れられない青年が、「また彼女に会えないかなぁ」って考えながらカフェでいろんな女性を観察しながらデッサンをしていたところ(イケメンなんだけど変な癖がある感じ)、シルビアらしき美しい女性を見つけます。そんでテンション上がった青年が彼女のことを尾ける…って流れです。

多分舞台が日本で主人公がおじさんだったらただの犯罪映画なんだけど、出てくる登場人物の顔面がマネキン並みに美しいのと、舞台のパリの街並みが洒落てるので不思議とロマンチックに見えます。

 

追いかける青年の視点

これを見て素晴らしいなと思ったのが、カメラの視点が彼女を追う青年の目線と完全にリンクしてるってことです。映画開始から30分ほど、青年がカフェでいろんな女性をデッサンするシーンが続きます。遠くのテーブルに座ってる女性を描くために目を凝らしたり、手前に入り込む男を避けたり、色々奮闘する彼。その彼の目線をカメラが完璧なまでに再現しています。彼が体勢を右に傾けるとカメラも同時に動き、女性を捉えるフォーカス送りもまるで彼の眼球の動きにシンクロしているようです。撮影めちゃくちゃがんばったんだろうな…。

また、90分の作中でこれといった会話もほんの少し。街の環境音とそこを行き交う人の会話が耳障り程度に聞こえる中、ただ淡々と青年がシルビアっぽい美女を追うだけ。会話がない分、画面の動きだったり、青年の些細な顔色の変化に注目がいきます。まるで彼が彼女を追うように、僕が彼を追っている気分にもなれますね。

全編通して主人公の表情と視点を上手に表現してるので、一人称の短編小説を読んでいる気分になります。

 

カメラの視点は誰のものか

で、こっからが本題なんですけど、この作品を見て、映画を撮るカメラって誰の視点?って思ったんです。(何本かネタバレします)

ほとんどの映画は、カメラが存在するはずない状況を俯瞰して撮ってますね。そこにカメラがある、という認識を見る側にさせてしまっては、それだけで場面が現場に変わってしまい、映画の虚構性が失われてしまいます。なので「カメラなんてないですけど。」って感じで演技するのが一般的です。

その常識を逆手にとる作品もあります。ハネケの「ファニー・ゲーム」は殺人鬼がカメラに向かって(映画見てる人に向かって)笑顔で話しかけてきます。このような演出を入れることで、見てる側を共犯者にすることができ、より不快感を煽ることができます。

ポン・ジュノの「殺人の追憶」では、ラストシーンで実際に起こった未解決事件を追う警察が画面を見つめてきます。映画が公開された時にまだ犯人は捕まってなかったらしいので、そのラストシーンが実際に存在する逃亡犯に向けてのメッセージのように受け取れます。

存在しないはずのカメラを存在する視点として利用することで、鑑賞者を第三者に変化させる。1953年に公開されたイングマール・ベルイマンの「不良少女モニカ」にも、少女がカメラを見つめるショットが入っていて、そのショットが相当物議を醸したらしいです。映画史家のアントワーヌ・ドゥ・ベックが「ベルイマンのあのショットは、虚構内に存在する登場人物が虚構内に存在しないはずのカメラを正規するという虚構構築上の違反を犯している。だがそれ故に現代的作品である」って遠回しに褒めてます。53年にそれをしちゃうって凄いよね。

そう考えると、去年話題になった「1917」も同じ類なのかもしれません。話しかけてはこないものの、戦地を走る二人をワンカットで追う展開は、鑑賞者を「後ろからついていってる三人目」にすることができ没入感を生むことができます。

一人称視点

では一人称視点はどうでしょう。僕は三人称視点より難しいのではと思います(難しいというか作れるジャンルがかなり限定される気がする)。そもそもカメラの存在が映画の主人公からしたら第三者なんだから、カメラを通した鑑賞者を物語の第三者に仕立て上げるのは結構簡単に思えます(型破り過ぎて昔は思いつかなかったんだろう)。

でも一人称となると、主人公の視点を完全に再現しなければなりません。実際「ハードコア」(2015)は完全一人称映画として話題を呼びましたが、果たしてそれが映画である必要性があるのかとのディスりもありました。もうそれはパソコンゲームなのでは?的な。

アクションとかホラーとか、確かに一人称で描けば、視界とかの情報量が限られる分スリルが増すでしょう。ただそれってもうゲームがやっちゃてることだし、本当に映画であるべき必要があるのかなと思います。

シルビアのいる街で、の素晴らしさ

で、話が一番最初に戻って、今回紹介した「シルビアのいる街で」はその一人称視点の良い点と、三人称視点の良い点をうまく利用してるなと思ったんです。追いかけてる彼の目線と、追いかけてる彼を眺める第三者の目線。この2つがうまーくかみ合わさって、お洒落なパリの街の中で一緒に彼女をストーキングしてる気分になれるんですね。

一人称視点はジャンルが限られるって書きましたが、多分アクションとかをするよりも、パーソナルで些細な日常を主人公目線で描いた方が、一人称の良さが出るのかなと思います。それこそ吉本ばななの小説みたいで良さげ。そういうの撮ってみたいね。

ホセ・ルイス・ゲリン監督いいなって思ったのに全くみれる場所がないのが辛い。

 

最後まで読んでくださいありがとうございます。